八戸の副港を種市・八木港に(S30.6.13デーリー東北)

昭和30年6月13日のデーリー東北が伝える八木港の整備完了というニュースは、単なる一漁港の近代化報告に留まらない、北奥羽地域が一体となって歩んできた歴史の証左と言えます。

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当時の八戸港は、全国から押し寄せるサバ漁の「回来漁船」で溢れかえっており、その膨大な船団をすべて受け入れることは、地元の漁船の操業や生活を圧迫する懸念がありました。そこで、地元漁民の保護と漁業全体の効率化を両立させるため、八戸の副港として岩手県九戸郡の八木や久慈に船団を分散・誘導するという戦略がとられたのです。

この試みは見事に成功し、これに呼応して岩手県側の受け入れ態勢も急速に整っていきました。八木漁協による魚市場の建設に加え、太洋漁業が日産冷凍12トン、冷蔵300トンという大規模な冷凍工場を建設したことは、その象徴的な出来事でした。特筆すべきは、この事業を牽引した太洋漁業の社長による言葉です。社長は、自身が岩手県人であるという郷土愛を認めつつも、この事業の意義を、後進性の強い九戸郡の振興のきっかけにしたいという想い、そして何より「北奥羽的な観点」に立って考えていると力説しています。

デーリー東北の購読圏が八戸から久慈まで広がっているように、この地域は県境という行政の枠を超え、八戸を中心とした1つの生活圏・経済圏として深く結ばれてきました。1955年という戦後復興が一段落した時期において、既に経営者の口から「北奥羽」という広域的な一体感を示す言葉が発せられていた事実は非常に重い意味を持ちます。地元を愛する情熱と、八戸を核とした地域全体の発展を目指す俯瞰的な視点。この2つが噛み合ったことで、県境をまたぐ「八戸と八木・久慈」の強力な補完関係が築かれ、水産都市としての基盤が固められていったのです。


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