岩手県漁連がソ連大使館に抗議の陳情(S49.12.4)
1974年12月4日
2026年2月28日
Contents
【岩手漁業の歴史】昭和49年12月4日、ソ連船団の脅威に立ち向かった漁民たちの記録
三陸の海と生活を守るため、岩手県漁連が敢行した決死の直接交渉
1. 繰り返される三陸沖での暴挙と甚大な被害
昭和46年秋に初めて姿を見せたソ連船団。彼らは日本の漁船を無視するように巨大なアンカーを下ろし、仕掛けられた網を無慈悲に引き裂いていきました。特に岩手近海を含む三陸沖では、イカ釣りや刺し網、底引き網漁船が甚大な被害を受けました。
当時の凄まじい被害状況
- 圧倒的な規模: 1万トン級の大型母船を筆頭とする大船団。
- 被害のピーク: 昭和46年にはわずか数ヶ月で512件、被害額は約4億6千万にものぼりました。
- 卑劣な操業: 日本の漁船が集中する沖合に平然と接近し、網や具をなぎ倒していく「暴力的な操業」が常態化していました。
2. 昭和49年12月4日:岩手県漁連、決死の直接陳情
「これ以上、黙って見過ごすことはできない」――。積年の怒りはついに爆発します。岩手県漁連は、青森県、北海道の被害漁業者らと固く団結し、直接行動に出ました。
1974年(昭和49年)12月4日、岩手県漁連の代表らは、北海道・青森の関係者とともに東京・麻布のソ連大使館を訪れました。当時の谷口県漁連会長らは、現場の惨状を強く訴え、以下の3項目を厳しく申し入れたのです。
- 操業の際は十分な安全を確認すること(安全操業の徹底)
- 被害を受けた漁業者に対し、速やかに損害賠償を行うこと
- 両国間でルールを定め「安全操業協定」を締結すること
この時の交渉は困難を極めました。ソ連側は「公海上の出来事」として当初は冷淡な態度に終始しましたが、漁民たちの粘り強い抗議と、数千人の漁師による全国的なデモが政府を動かす大きな原動力となりました。
3. 結実した「安全操業協定」と未来への願い
岩手県漁連らの行動から半年後の昭和50年6月7日、ついに歴史的な合意がなされます。当時の宮沢外相とソ連のイショフ漁業相との間で「日ソ漁業操業事故処理協定」が正式に調印されました。
| 協定の主な柱 | 具体的な内容 |
|---|---|
| 標識・信号の徹底 | 互いの操業状況を無線や信号で確認し合う「情報の交換」。 |
| 損害賠償委員会の設置 | 東京とモスクワに窓口を置き、事故発生時の損害を速やかに処理。 |
| 紛争の回避 | 公海における操業秩序を確立し、悲劇を繰り返さない。 |
【岩手の漁業を守り抜いた誇り】
昭和49年12月4日の陳情において、岩手県漁連が果たした役割は極めて大きなものでした。県内の漁民たちは、生活の糧である海を守るため、まさに一丸となって戦ったのです。私たちが今、当たり前のように三陸の豊かな海の幸を享受できる裏には、こうした先人たちの執念と、歴史的な決断があったことを忘れてはなりません。
