i一関・西磐井郡 28 1月 1957 一関で荷馬車引きが県南バスの運転手を殴る 昭和32年1月30日の読売新聞岩手版より。 1月28日の夕方5時ごろ、一関市山目変電所前の県道上で、荷馬車業の男3人が酔っぱらって道に広がって歩いていた。 そこへ後ろから県南バスがやってきた。 「おい!そごの酔っ払い!通れねえべ!どげ!」 「何このーーー!?」 後はもう石原裕次郎の「嵐を呼ぶ男」の世… 続きを読む
b二戸・二戸郡 10 1月 1957 貨車不足で北福岡駅から木炭が出荷できず(昭和32年1月10日) 昭和32年1月10日の河北新報岩手版より。 この当時、二戸の木炭は東京駅頭渡しで500円と言う高値を記録していた。 しかし、貨車不足のために1車も出せなかったと言う珍しいことになってしまった。 二戸地方では、年間200万俵の木炭を生産していたが、ほとんどは農業との掛け持ちなので、前年の家は1ヶ月ぐら… 続きを読む
l全県 3 1月 1957 岩手県内の公共企業体から新年の挨拶(昭和32年1月3日) 昭和32年1月3日の河北新報岩手版より。 岩手県内の公共企業体… 国鉄や専売公社などから新年の挨拶広告。 … 続きを読む
d宮古・下閉伊郡 11 7月 1956 海というものを初めて見た山の分校の子供「なんて広かんべぇ!」 昭和31年7月11日読売新聞夕刊より。 下閉伊郡安家村の安家小学校坂本分校では7月2日に、宮古の浄土ヶ浜への修学旅行が行われた。 そもそも、安家村の坂本地区とはどのような場所であるか。 木炭や林業の村であったが、現金収入が非常に少ない部落であった。 「日本のチベット」と呼ばれる地域である。 最近、文… 続きを読む
b二戸・二戸郡 5 5月 1956 福岡(二戸)で花見帰りのバスが崖から転落(S31.5.5岩手日報) 九戸村戸田部落の青年会を乗せた県北バスが、福岡町で転落したという。 奇跡的に死者はいなかったようだ。… 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 22 4月 1956 交通安全足もと見れば(昭和31年4月22日) 昭和31年4月22日の岩手日報より。 交通安全に関する写真記事ではあるが、当時の盛岡の道路の様子がわかってもらえるだろう。 … 続きを読む
c久慈・九戸郡 23 2月 1956 3月からの八戸線ダイヤ(昭和31年2月23日) 昭和31年2月23日のデーリー東北より。 この年の3月からの八戸線のダイヤを掲載している。 八戸線は線形が平坦で、早くからガソリンカーが導入されていた。 … 続きを読む
b二戸・二戸郡 10 2月 1956 岩手〜青森を結ぶ一級国道4号線が50日ぶりに開通(S31.2.10デーリー東北) 青森と岩手、いや外界を結ぶ国道4号線が積雪で閉ざされていたところ50日ぶりに開通したらしい。… 続きを読む
b二戸・二戸郡 10 2月 1956 軽米町で国鉄バスをいたずらで運転したら農家に突っ込む(昭和31年2月10日) 昭和31年2月11日の河北新報岩手版より。 2月10日の午前8時40分ごろ、軽米町晴山の県道で、北福岡への折り返し待ちの国鉄バスを、福岡町内の靴屋の28歳の男がいたずらで運転したら、誤って農家に突っ込みバスの前面と農家の縁側を壊した。 被害額は24,000円と言うことであった。 … 続きを読む
e釜石・遠野・上閉伊郡 7 2月 1956 釜石線でヤミ米55俵を押収(昭和31年2月7日) 釜石警察署は、陸中大橋駅で7:10に到着した下り321列車と、9:05に到着した311列車を急襲し、うるち米2,960kg、もち米400kgの系55俵分を押収し、2名を検挙。 当時の食糧管理法では、戦後を引きずって米価はまだ国が統制している頃で、それ以外の流通は認められなかった。 これが、この年以降… 続きを読む
g北上・和賀郡 5 2月 1956 和賀地方では近年にない豪雪でバスが走れず馬ソリ出動(昭和31年2月5日) 昭和31年2月7日の河北新報岩手版より。 それでなくとも湯田村や沢内村といった和賀郡西部は岩手県内で最も積雪のある地方であった。 ところがこの冬は、それに輪をかけた豪雪となり、湯田村川尻では5日現在で230cmと数十年ぶりの記録的な豪雪であったという。 これでは車は走れず、郵便配達人や警察官はスキー… 続きを読む
c久慈・九戸郡 2 2月 1956 久慈や八戸の行商は新しいディーゼルカーに統制して乗りましょう(S31.2.2デーリー東北) 昭和31年3月から、八戸線には新しいディーゼルカーが導入されることとなった。 これは10系気動車であるが、称号規程改正以前なので「四五〇〇〇型」となっている。 それで、行商組合では「統制して乗車しましょう」と取り決めたのであった。… 続きを読む
g北上・和賀郡 27 1月 1956 横黒線にジョルダン式雪かき車が出動(昭和31年1月27日) 昭和31年1月29日の岩手日報より。 岩手県内でどこが最も雪が積もるかといえば、何といっても西和賀地方である。 その西和賀地方を走る北上線―――当時の呼び方であれば横黒線はこの年も除雪に苦労していた。 それで、横黒線にはラッセル車どころかより広幅のジョルダン式雪かき車が配属されていた。 この年は「例… 続きを読む
i一関・西磐井郡 22 1月 1956 一ノ関駅に停車中の列車の中から嬰児の死体(昭和31年1月22日) 昭和31年1月25日のデーリー東北より。 1月22日、23時55分ごろ、東北本線の一ノ関駅に停車中の上り146列車の車掌室の椅子の下から、男の赤ちゃんの死体が発見されたのである。 恐ろしい話ではあるが、なぜ一関の話が八戸のデーリー東北で報じられたのか? それは、生の証言より、古間木〜三戸の間で持ち込… 続きを読む
c久慈・九戸郡 8 1月 1956 八戸線にディーゼルカーを増強(昭和31年1月8日) 昭和31年1月8日のデーリー東北より。 盛鉄局では、八戸線の旅客輸送が増えてきたので3月1日から新ディーゼルカーを増強する予定であると言う。 この時点で、ディーゼルカーは5両あったと言うが、それに新車を運転9両加えれば14両となる予定。 ディーゼルカーは、尻内から久慈の間を運転する予定であるが、尻内… 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 7 1月 1956 カップルのオートバイの横乗りは取り締まりますよ(昭和31年1月7日) 昭和31年1月7日の岩手日報より。 この頃、オートバイにカップルで乗って、女性の方は横乗りで事故を起こすことが多かったようである。 そこで警察は取り締まりに乗り出すことにした。 警察は「捕まりたくなかったら女性もズボンをお召しになってまたがって乗ってください!」と。 ちなみに、どちらも… 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 5 1月 1956 紺屋町でDQNがバスに空気銃を撃ち込む(昭和31年1月5日) 昭和31年1月7日の岩手日報より。 1月5日18時20分頃、盛岡市紺屋町の田山家具店の前で、馬町車庫発青山町行きの中央バスに何者かが空気銃を撃ち込んだ。 元旦の頃にも同じようなことがあったようで警察は犯人を捜査することにした。 … 続きを読む
e釜石・遠野・上閉伊郡 1 1月 1956 国際港としてのびゆく釜石港(昭和31年1月1日) 昭和31年元旦の河北新報岩手版より。 釜石製鉄所の昭和30年の輸出総額は16万トンで70億円であった。 新春そうそうの1月2日には、日本商船の興名丸(7000トン)が釜石に入港し、アルゼンチン向けにスラブやビレットを積み出すという。 また、松岡開運の松福丸(6890トン)もまた、アルゼンチン向けにビ… 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 29 11月 1955 盛岡駅前の最後の人力車夫 昭和30年11月29日の岩手日報より。 「この道三十年」というシリーズ物の記事より。 戦前は盛岡駅前に50台以上の人力車が並んでいたという。 そして1日に1円稼げば御の字で、50~60銭稼げばその日の米代にも事欠かなかったという。 昭和9年に山田線が宮古まで開通する前は、テトテトとラッパを鳴らして走… 続きを読む
e釜石・遠野・上閉伊郡 20 11月 1955 新米のシーズンは担ぎ屋のシーズン 昭和30年11月20日の岩手日報より。 遠野地方の穀倉地帯では、新米のシーズンになると、釜石や大槌あたりから列車に乗って担ぎ屋が大挙して来るという。 農家としても、供米よりも現金化が早いので、1升95円程度の安値でも売るのだという。 さながら、釜石線の列車は「担ぎ屋列車」の様相を呈していたという。 … 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 17 11月 1955 山田線の捨て子(昭和30年11月17日) 昭和30年11月17日。 宮古発盛岡行きの411列車が区界駅に到着しようとした時のこと。 車掌が検札していると、小さい女の子が泣いている。 どうやら迷子になったらしい。 親の名前を聞いても、それどころか自分の名前すら言えないらしい。 これはいったいどうしたものか・・・ 盛岡に到着し、とりあえず中央児… 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 16 11月 1955 山田線の赤字はすでに3億円(昭和30年11月16日) 昭和30年11月16日の岩手日報より。 前年、やっとのことでアイオン台風の被害から復旧し全線開通はしたものの・・・ 岩手日報の表現をそのまま使えば、「あまりにもみじめであり、栄養失調寸前のうきめに会っているという情ない現状だ」とまで言われる状況であった。 盛鉄局管内には12の路線があったが、営業成績… 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 13 11月 1955 汽笛のまにまに 盛岡駅の24時間 昭和30年11月13日の岩手日報では、盛岡駅の24時間を1ページ内の写真で大々的に報じている。 盛岡駅はまだ「民衆駅」ですらなく、木造駅舎だった時代である。 盛岡駅の朝は、担ぎ屋のおばちゃんから始まる。 20貫(75kg)もの荷物を担いで数里の道も歩くのだという。 彼女たちは、「どっこいしょ」と座っ… 続きを読む
c久慈・九戸郡 9 11月 1955 じぇじぇじぇ!?久慈駅に10系気動車? 昭和30年11月9日の岩手日報より。 八戸線に新しいディーゼル・カーがお目見得するのだという。 その名は45000形。 つまり車両称号変更前の番号である。 八戸線は山田線や釜石線に比べたら、はるかに平坦な路線なのでディーゼル・カーの導入も早かった。 記事では「待浜駅付近の急勾配がネックだが」と書いて… 続きを読む
e釜石・遠野・上閉伊郡 1 11月 1955 釜石自動車教習所では夜間部を開設!(昭和38年11月1日) 昭和38年11月1日の岩手東海新聞より。 釜石自動車教習所では、夜間部を開設するという。 … 続きを読む
k大船渡・陸前高田・気仙郡 27 8月 1955 大船渡港近くの飲み屋が「カンバンだよ」と断ったらカツオ漁師に袋だたき(昭和30年8月27日) 昭和30年8月28日の河北新報岩手版より。 8月26日から27日に日付の変わった頃のこと。 三重県三木浦港からはるばる大船渡港まで入ってきたカツオ漁船の漁師が、港に近い飲み屋に入ろうとした。 店の親父は「悪いね。もうカンバンなんだよ」 「何だと!?」「何だとでねえこのー?」 口論になってしまい、しま… 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 13 8月 1955 盛岡~陸前高田の直通バスは翌月実現か(昭和30年8月13日) 昭和30年8月13日の河北新報岩手版より。 この時点で、岩手中央バスが盛岡~遠野間に、国鉄バスが遠野~陸前高田に路線があった。 この2路線を統合して、中央バスと国鉄バスが盛岡から陸前高田までを通しで運行できるように陸運局に陳情をしていたのである。 これを受け、運輸省から担当者が来県し、実現近しとの見… 続きを読む
g北上・和賀郡 12 8月 1955 気仙沼花火大会と北上灯ろう流しに臨時列車(昭和30年8月12日) 昭和30年8月12日の河北新報岩手版より。 盛鉄局旅客課では、8月14日の気仙沼花火大会と、8月16日の北上灯ろう流しで以下の通り臨時列車を運行するという。 8月14日 574レ 気仙沼22:24~陸中松川23:56 8月16日 4711レ 北上22:02~陸中川尻23:13 467レ 北上21:0… 続きを読む
i一関・西磐井郡 1 7月 1955 東北本線に清水原駅開業 花泉町にある清水原駅は、昭和19年の開設当初は信号場であったところ、地元民や隣接の金沢村によって駅昇格運動が起こっていた。 そうしたところ、いよいよ7月1日に駅として開業することとなったのである。 費用は全額地元負担で、鉄道側の組んだ予算は495万円、そのうち70万円の人件費は地元の人たちの労力奉仕… 続きを読む