l全県 8 11月 1955 長欠、臨時免状教員… これが「辺地学校」の実態だ(昭和30年11月8日) 昭和30年11月8日の岩手日報より。 県教育研究所では、辺地学校についての調査結果を発表した。 【辺地学校数】 小学校 ・・・ 776校中278校(35.8%) 中学校 ・・・ 386校中114校(29.5%) 合計 ・・・ 1062校中392校(33.7%) 【免許状】 小学校 普通免許状を持つ教… 続きを読む
e釜石・遠野・上閉伊郡 3 11月 1955 遠野市の僻地・大出に中学校の分校を設置 昭和30年11月3日の岩手日報より。 この頃の岩手県においては、僻地で学校まで何キロも歩かなければいけない、農作業で忙しいなどの理由で長欠している生徒が多くいた。 特に、体が成長し一人前の働き手とみなされた中学生であればなおのことであった。 この遠野市大出もそのような地区であり、この地区の中学生は何… 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 12 8月 1955 紫波町・紫南中学校の本校舎が完成(昭和30年8月12日) 昭和30年8月12日の河北新報岩手版より。 紫波町の紫南中学校(生徒数522名)の新校舎が完成した。 総工費1055万円で、昭和29年度からの2ヶ年継続工事であり、床板にはフローリングを使用したという。 この紫南中学校、この昭和30年に日詰中学校と赤石中学校を合併して開校したもので、翌… 続きを読む
c久慈・九戸郡 10 8月 1955 村の財政が貧乏で汚い井戸水しか飲めない中学校(昭和30年8月10日) 昭和30年8月10日の河北新報岩手版より。 九戸郡九戸村では、まだ上水道が整備されておらず、飲用水は井戸水に頼っている状況であった。 伊保内中学校では、村の予算が無く、高台の耕地に建てられた校舎の隅に形ばかりの井戸を設けたのだという。 しかし、水面が地面と同じ高さとなり、雨が降れば下水からあふれた汚… 続きを読む
k大船渡・陸前高田・気仙郡 1 8月 1955 陸前高田・気仙小学校で新校舎の落成式(昭和30年8月1日) 昭和30年8月3日の河北新報岩手版より。 陸前高田市の気仙小学校が1日に新築落成記念式典を行った。 総工費4841万円、鉄筋コンクリートの3階建て、2958平方メートルで県内一を誇る。 この日は「気仙川開き」をかねて全町あげて祝賀気分となった。 … 続きを読む
g教育 27 6月 1955 一関で英語教室(昭和30年6月27日) 昭和30年6月27日の岩手日日より。 一関で英語教室を開くというが、教えるのは一関一高や一関二高の英語教師。 …というか、それって地方公務員法上大丈夫だったの? … 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 18 5月 1955 「修学旅行怖い」と中止する学校続出 紫雲丸の沈没事故、北上の飯豊橋のバス事故と全国的に修学旅行生が死ぬ事故が続発し、「怖いので修学旅行を中止する」という学校が続出する。 盛鉄局では年間70万人の修学旅行生を輸送していたのだという。 盛鉄局管内で修学旅行を中止したのは以下の通り。 青森市立長島小各校(5年生290名) 青森市立橋本小学校… 続きを読む
f花巻・稗貫郡 14 5月 1955 北上バス転落事故(昭和30年5月14日) 瀬戸内海で宇高連絡船紫雲丸が沈没し多くの修学旅行生が犠牲になって3日後の昭和30年5月14日のこと。 稗貫郡石鳥谷町の八日市小学校の修学旅行帰りの小学生を乗せ松島から来たた花巻電鉄の貸切バスは、夜の国道4号線を北に上り学校に戻ろうとしていた。 飯豊橋のあたりで向こうから藁を満載したお百姓さんの自転車… 続きを読む
i一関・西磐井郡 23 3月 1955 一関一高で落第制度復活 昭和30年3月23日の岩手日日新聞より。 一面で「終戦初の落第制度実施 一高で落第生九人」という見出しで記事が出ている。 一関市の本社がある岩手日日で言う「一高」とは、盛岡一高ではなく一関一高のこと。 岩手県内では盛岡中学に次ぐ2番目の歴史を持ち、第一次安倍政権で「アベノミクス」を支えたという菅原郁… 続きを読む
m県外・参考 29 1月 1955 仙台市内の裁縫学校入学案内(昭和30年1月29日) 昭和30年1月29日の河北新報岩手版より。 仙台市内の学校入学案内があるが、ほとんどが裁縫学校。 平成以降であれば、裁縫学校とはファッションを仕事にする人のためのための学校となっているが、この時代であれば服地を何ヤール買ってミシンで作っていたであろうから、かなりの女性に需要があったのだろう。 &nb… 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 1 8月 1954 早稲田大学グリークラブが岩手県公会堂で公演(S29.8.1岩手日報) 早稲田大学グリークラブは東北や北海道を回って公演をしていたようだが、7月31日は岩手県公会堂で公演したという。 … 続きを読む
d宮古・下閉伊郡 1 8月 1954 川井村の僻地生徒のために県北バスが無料スクールバス(S29.8.1岩手日報) 川井村の川井中学校では、学区が非常に広く、場所によっては往復4里の道を歩かなければいけない生徒もおり、これでは予習復習する暇もなく、ぐったり寝てしまい、学力の低下や長期欠席につながっていた。 そこで、校長が県北バスに頼み込んで、無料のスクールバスを走らせてくれるように頼んだのである。 その結果、県北… 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 28 4月 1954 盛岡郵便局で岩大学長が一日局長となり、ガチで仕事する羽目に 郵政週間の行事の一つとして、盛岡郵便局では県内の名士に一日局長をお願いしているが、今回は鈴木重雄岩手大学学長。 昭和29年4月29日読売新聞岩手版より。 鈴木学長は盛岡高等農林学校の校長であったものが学制改革でそのまま初代岩手大学学長となったものである。 午前10時に出勤し、局内の課長や組合幹部と話… 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 16 4月 1954 この時期の不良少女の実例(昭和29年4月16日) 昭和29年4月16日の岩手日報より。 春になると誘惑が増えるので注意を呼びかけている。 特に女子は家庭裁判所に装置された後でも自分を曲げない頑固な例が多いという。 岩手県内の不良少女の例は以下の通りであるという。 盛岡のA子(19)。中学校の頃からスクエヤー・ダンスで4~5人の男と関係を持っていたと… 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 11 3月 1954 ラジオ岩手で教育二法案に関する討論会で激論(昭和29年3月11日) 昭和29年3月12日の岩手日報より。 この当時、学校教員が政治的なデモに参加し、教育が政治色を帯びたものになることが問題になっていた。 日教組は令和となった今以上になお政治色が強く、京都では旭丘中学問題というのがこの時点でなお解決していない状態であった。 それで、国会では教員の政治介入を禁じる「教育… 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 11 3月 1954 「税金を納めましょう!」小学生の作品展 昭和29年3月11日の岩手日報より。 盛岡納税貯蓄連合会のポスター習字児童作品展示会が3月10日から2日間、盛岡商工会議所で開催された。 … 続きを読む
g北上・和賀郡 11 3月 1954 黒沢尻女子高に商業科設置 昭和29年3月11日の岩手日報より。 黒沢尻女子高校では、この春から商業科を設置するのだという。 それで、新校舎も増築したという短いニュースである。 ちなみに、黒沢尻女子高校とは黒沢尻高等女学校がルーツの現在の北上翔南高校ではなく、現在の専大北上高校。後年、甲子園出場の常連となる専北はこの当時は女子… 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 3 3月 1954 岩手大学入試始まる 昭和29年3月3日の岩手日報より。 この日は、国立一期校の入試の日であったという。 岩手大学は国立一期校であった。 この2~3日前は、東京や仙台に受験に行く受験生が、在校生の見送りを受けて盛岡駅を出発していったという。 逆にこの日は、全国から受験生が盛岡に集まってきていた。 岩手大学は入学定員680… 続きを読む
d宮古・下閉伊郡 16 12月 1953 へき地教育の過酷な現実 昭和28年12月16日の読売新聞では、全国のへき地教育の過酷な実態を報じている。 降水で丸木橋が渡れなくなると荷物用のケーブルで通学する(群馬県中里中) 山道が険しいので冬季の通学は部落民が交代で提灯を持っていく(岐阜県) 通学路は波が引いたときに数百メートルを命がけで走る(青森県脇野沢村) 子供が… 続きを読む
h水沢・江刺・胆沢郡 2 10月 1953 優良こども銀行に胆沢(水沢)管内から8校を推薦(昭和28年10月2日) 昭和28年10月2日の胆江日日新聞より。 「こども銀行」とはいっても、紙幣のおもちゃではなかったようで、小学校児童の貯蓄を奨励する運動であったようだ。 昭和28年度の優良こども銀行表彰は11月19日に東京で大蔵大臣や日銀総裁により表彰が行われることになったが、岩手県知事や岩手県貯蓄推進委員会は、胆沢… 続きを読む
i一関・西磐井郡 4 9月 1953 一関・山目小学校の学童の夏休み「悪い映画も見たが総体的には良好」(S28.9.4岩手日日) 一関・山目小学校の学童の夏休みの生活記録からは「悪い映画も見たが総体的には良好」と言う結果が出たようだ。 ところで「許されていない映画」逆にいえば「許されている映画」と言うのはどんなのだったのだろう? … 続きを読む
i一関・西磐井郡 4 9月 1953 一関中学校で講堂建築資金の為に奇術と「三つの鐘」(昭和28年9月4日) 昭和28年9月4日の岩手日日より。 一関中学校では講堂の新築に際し、PTAでは資金募集の為に、9月23日の秋分の日に奇術と「歌合せ三つの鐘」を開くことにしたという。 以下のような演目が予定されていたという。 坂本種芳(岩手県出身の奇術研究家、世界アマチュア奇術選手権保持者) 柳沢義胤(ラジオ東亰奇術… 続きを読む
hスポーツ 25 8月 1953 三船十段は一関中学(現:一関一高)に在学していたことが判明(昭和28年8月25日) 昭和28年8月25日の岩手日日より。 8月30日に一関小学校で開催される予定の「岩手宮城対県柔道試合」に審判長として来る予定であった三船久蔵十段は一関にいたことがある、ということを一関市柔道会長があきらかにしたという。 いわく、 三船十段は久慈で生まれたが、明治23年に小学校5年生の頃実兄の勤め先で… 続きを読む
i一関・西磐井郡 23 8月 1953 一関・笹谷小学校と狐禅寺小学校に電話架設(昭和28年8月23日) 昭和28年8月25日の岩手日日より。 一関市立笹谷小学校には8月21日、狐禅寺小学校には8月23日に電話が架設された。 電話番号は笹谷小学校は803番、狐禅寺小学校が804番。 これで、一関市内の小中学校で電話が無いのは中里小学校前堀分校だけとなった。 … 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 20 10月 1952 松尾村の松尾中学校の新校舎が落成します!(昭和27年10月20日) 昭和27年10月19日の岩手日報より。 松尾村の松尾中学校の新校舎が竣工し、20日に竣工式典を挙げることになった。 グランドピアノや映写機も備え付けられており、文部省のモデルスクールに指定してもらおうといきごんでいる。 … 続きを読む
l全県 5 10月 1952 大学入試センター試験ならぬ「進学適性検査」(昭和27年10月5日) 昭和27年10月5日の岩手日報の広告欄より。 この当時、国立の新制大学を受験する人は「進学適性検査」を受けなければならなかった。 そのあたりの詳細は、以下のページに書いてある。 後年でいう共通一次試験、センター試験同様「国立大学受験者はこの試験を受けなければいけない」という性質のものであるようだが、… 続きを読む
l全県 4 10月 1952 教育委員選挙はカオス(昭和27年10月4日) 昭和27年10月4日の岩手日報より。 激戦地・一関市の最後のお願い。 戦後の民主化により、教育委員も公選制の時期があったのだが、なかなかのカオスな状況だったようである。 それで「最後のお願い」とばかりに、自転車だ、トヨペットだ、自動車だと演説に忙しい状況であった。 ちなみに「トヨペット」が自家用車の… 続きを読む
l全県 4 10月 1952 教育委員を選挙で選んでいた時期があった(昭和27年10月4日) 昭和27年10月4日の岩手日報より。 「町も村も教育の総選挙」という見出しで写真記事が掲載されている。 何の選挙かというと市町村の教育委員の選挙である。 戦後の民主化で、教育委員も選挙で選ぶことになった。 しかしこの制度には弊害もあったようで、教育の現場に政治が持ち込まれるということで… 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 1 10月 1952 盛岡二高の教諭が生徒たちの輸血で快方に(昭和27年10月1日) 昭和27年10月1日の岩手日報より。 旧制の盛岡高等女学校が学制改革で改組された盛岡二高の3年B組の教諭は、小腸炎で入院したというが、輸血がなければ手術もできない状態であったという。 そこへ、担任するクラスの女生徒達が献血を申し出て、手術ができるようになったという。 教諭は非常に感激して感謝しか無い… 続きを読む
a盛岡・岩手郡・紫波郡 18 9月 1952 岩手の死因は都市は結核、米作値は脳溢血、若者は自殺が多いようだ(昭和27年9月18日) 岩手県民はどのような理由で死ぬのか。 岩手大学農学部小柳達男氏が県内の地域別に死因の調査を行った。 米作地(水沢):10万人 死亡者・・・10万人中213.3人 脳溢血・・・同 38.3人 結核 ・・・ 同 24.4人 乳児栄養不良 ・・・ 同 22.3人 畑作地(福岡(二戸)):7万人 死亡者・・… 続きを読む