三陸大津波に対する東京での動向

昭和8年3月3日に三陸大津波が発生、東北地方で甚大な被害が発生する。

翌3月4日の読売新聞では、むしろ宮城県での被害を大きく報じている。

見出しは以下のようになっている。

  • 惨!生地獄の三陸 震水害地の実地踏査記
  • 宮城県 セメントの空樽に納棺 涙で形ばかりの手向 右往左往哀れ罹災者群 から桑村地方の惨状

内務省警保局(現在の警察庁)では東北地方の惨状を視察すべく、発災当日の3日昼12時に羽田飛行場から事務官2名が飛行機に乗って仙台へ向かったのだという。

仙台に到着したのは午後の2時で、20分間休憩して最も被害甚大である岩手県の海岸線の向かって飛行機を飛ばしたのだという。

そして釜石町上空を高度300mの低空飛行で旋回し、仙台飛行場に戻ったのだという。

そして仙台から羽田に戻ろうとしたが、すでに夕方の6時20分になっており日没のため霞ヶ浦飛行場に不時着。

土浦警察署差し回しの自動車で9時30分に内務省に到着するという、昭和8年の時点で東北まで日帰りという極めてあわただしいスケジュールでの視察となった。

報告にいわく、
「牡鹿半島を越えた海岸線一帯は被害が甚大で流出家屋の木片が山のように打ち上げられている。相当高いところから見てもあの被害だった。
釜石町の突堤付近には300戸ほどの家屋が流失している。港の中は落花狼藉、船が転覆していて屋根が流れていて実に悲惨な情景。
飛行機が低空飛行すると旗を振ってこれに応えていた」

 

東京府や東京市でも、衛生課が救護班を派遣することとなった。

東京府では済生会主事を班長に医師2名、看護婦3名、書記1名で上野駅19:15発の列車で釜石に向けて出発。

東京市は衛生課長を班長に医師2名、看護婦4名、事務員2名で第1班を編成し22:30上野発の列車で罹災地へ向かい、第2班も4日に編成され送られると報じられている。

 

 


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