米内光政海軍大将(盛岡出身)に大命降下し総理大臣に!!!(昭和15年1月14日)
昭和15年1月15日の岩手日報より。
1面トップで、海軍大将の米内光政が内閣総理大臣の大命が下り、それを拝することとした旨を伝えている。
岩手県出身者としては原敬、斎藤実に次ぐ3人目の総理大臣となる。
前任の阿部内閣は昭和14年8月に発足したものの、半年あるか無いかのうちに倒壊してしまった。
予備役の陸軍大将であった阿部信行による内閣は、日独伊防共協定の中の政権であった。
その発足直後の昭和14年9月、ドイツはポーランドに進攻する。
そしてイギリスとフランスがドイツに宣戦布告し、ここに第2次世界大戦が始まったのである。
日独伊の防共協定により、日本がそのヨーロッパの宣戦に参画したかと言えばそうではなく「まず日中戦争に専念しよう」という方針を取った。
しかしそれはうまくいかなかった。
そして1月14日の午前中、辞表を提出することとなる。
「不肖昨年八月測らずも大命を拝して輔弼の重責に任じ爾来閣員一致協力、事変処理を中心として内外政務に励精し来りたる処向後既定の方策を具現するに当り或いは国務遂行の方法について意見の混一を期し得ざるものあるやを惧る、即ち時局重大の場合政務の運行を遅滞せしめ目下進行過程の第一段階に入れる事変処理に不測の影響を与えざることを念とし本日闕下に伏し辞表を捧呈し奉りたる次第なり」
では後任を誰にするか。
この戦時中でもあり、おそらくは陸軍から選ばれるのではないか。
それは陸軍大将の畑俊六ではないかと言われていた。
この時、昭和天皇は日独伊三国同盟には賛成できなかったという。
それで、組閣に当たり意中の人物を内大臣に推挙したのだという。
天皇が自ら特定の人物を首相に推すということは極めて珍しかった。
それが、親英米派と言われ、日独伊三国同盟反対派として「良識派」と呼ばれていた米内光政であった。
しかし、陸軍や好戦的な国民感情からは反感もあり、前途多難なスタートであった。