一関出身の女性がアメリカから引き揚げて帰郷(S16.11.25新岩手日報)
昭和16年11月25日付の岩手日報には、開戦直前の極めて緊迫した情勢下でアメリカから帰国した、一関出身の45歳の女性のインタビューが掲載されています。

彼女はアメリカのシアトルやタコマ、そしてウィラパといった地域で33年にわたりクリーニング業を営んできました。12歳で渡米して以来、人生の大部分を異郷で過ごしてきましたが、日米関係の悪化に伴う資金凍結令の発令によって経済的に追い詰められ、生活の基盤を奪われる事態となりました。
こうした状況を受け、彼女は亡くなった夫の遺骨を抱き、タコマに残る弟に現地の後事を一切託して帰国を決意しました。彼女が乗り込んだのは、日米間の緊張が極限に達する中で派遣された最後の救出船とも言える氷川丸であり、昭和16年11月18日に横浜港へ入港しました。これは真珠湾攻撃が始まるわずか20日前のことであり、まさに日米航路が閉ざされる直前の間一髪の引き揚げでした。
記事の中で彼女は、国家間の対立や資金凍結といった厳しい現実を背景にしながらも、現地の米国人個人については親切であったと述べています。これは社会全体に渦巻いていた激しい排日ムードや経済的な圧迫と、長年築いてきた隣人との人間関係との間で揺れ動く、当時の在米邦人の複雑な心境を物語っています。
一方で、当時の日本国内ではアメリカに対して強い敵意と被害者意識が渦巻いていました。ABCD包囲網による石油の禁輸や物資不足が庶民の生活を直撃し、生活が苦しいのはアメリカのせいだという認識が定着していました。メディアはアメリカを「日本の生存権を脅かす強欲な国」と報じ、国民の間には自衛のために立ち上がらざるを得ないという窮鼠猫を噛むような心理が広がっていました。
12歳で海を渡り、人生の半分以上を過ごした地を離れて故郷一関の土を踏んだ彼女の言葉は、嵐の前の静けさの中で日常が崩壊していく瞬間の貴重な証言となっています。彼女が安堵の思いでこの記事に応じている一方で、日本全体は「打倒米英」の熱狂へと突き進んでおり、タコマに残された弟や同胞たちもまた、その直後に始まる強制収容という過酷な運命に飲み込まれていくことになります。
当時の岩手県民にとってこの記事は、遠い異国の地で起きていた排日の実態と、目前に迫った回避不能な戦争の予感を生々しく伝えるものであったと言えます。
