終戦、そのとき岩手では(昭和20年8月15日)

8月15日、日本はポツダム宣言を受諾し終戦を迎える。

その時岩手はどうであったか。
岩手日報からその様子を抜き出してみたい。

盛岡工機部(国鉄盛岡工場)の大詔拝聴

仙台鉄道局盛岡管理部の終戦の勅語拝聴は、15日正午から盛岡駅貨物取扱所で行われた。

岩手日報の書きぶりをそのまま抜き出すと、

この日管内の各駅でも管理部に準じて、八千の前国鉄戦士はポツダム会談を受諾し給ひし聖慮の為に深く謝し奉るとともに、子々孫々島国継承を誓ひ合ひ、運行中の列車は一分間休止して大詔に対し、全国鉄の国内復興に果たすべき新たなる任務を誓い奉った。
管理部の大詔拝聴は参列の職員は粛として声なく、玉音が告げさせ給ふ戦争終結に一億国民の再結束を拝聴し、我々の至らざりし故に宸襟を悩ましたるを悔ひる嗚咽さへもきこえるのだった。
白井管理部長は大詔宣下並びに内閣告示放送終了後、管下鉄道義勇隊員の心構へとして次のやうに訓示した。
只御違例の大詔御放送を諸君とともに拝聴し奉り恐懼に堪へざるを痛感した次第である。われわれ国鉄戦士は上司の命を信頼して本来の任務たる輸送の任務に邁進致すべきは言を俟たない処であって徒に軽挙妄動することなく国鉄の伝統たる大家族主義のもと一層親密を保って職場に奮闘するやう望んで止まぬ。

ちなみに、15日の列車運行状況としては以下の通りであったという。

  • 東北本線:下り盛岡発10:44、13:36発で多少の遅延
  • 山田線、橋場線:ダイヤ通り

大詔を拝聴した後の15日午後の盛岡市内は平静そのものであったという。

岩手日報の記者が自転車で盛岡市内を回ってみると、事務室という事務室から嗚咽が聞こえてきたのだという。

岩手医専(現:岩手医大)の生徒は「もう死んでしまった方が良かった」とつぶやいている。

自動車工場に動員になっていた盛岡中学(現:盛岡一高)の生徒は唇をかんで往来に飛び出してきた。

盛岡駅の構内には下閉伊郡から青森に行くという応召兵が2人いたが「放送で聞きましたが本当でしょうか?やむを得ません、残念です。しかし僕たちは青森に行かなければなりません」という。

どこかの軍需工場では男子行員たちが涙を拭いている。

「我々は軽挙妄動は慎もう」郷土臣民の先駆けとなって県都も皇国のために起ち上がることを十万市民上げて決したのだった・・・ということである。

紫波郡見前村の農民たち

紫波郡見前村の村民も、野良の仕事を休みラジオの前に立ち悲痛のうちに大詔を拝聴したのであるという。

村役場には、村出身の純忠勇士の遺影が飾られている。

集まった一同は宮城を遥拝し。そして亡き戦士の前で自らの努力の足らざるを深くわびたのだという。

この様子を新聞は「黒枠内の英雄はこの様子をどのように見ているだろう」と綴っている。

兄が戦死したという役場に勤めている23歳の女性は、

「私は役場に勤めているので野良の仕事は思う存分できなかったが、昼は役場で筆を執り、朝晩は鍬を取って野良で働いた。こんなに働いたのに、ソ連の宣戦と新型爆弾にはどうすることもできなかった。同僚の女性と抱き合って泣いていた。陛下の玉音は何というかたじけないきわみだろう。罪多い我ら民草の上に深く思いを致され、人類平和の為に宣う玉音の尊さは今もありありと頭に浮かんでくる。今となってはあらゆる苦難のもとに国体護持の為に戦い抜くしかない」

とコメントしている。

また、終戦となったことで疎開している学童たちはその理由を失ったので、親元へ帰る準備に入ることになった。

新聞にいわく、「やがて学科の授業もやることになるだろうが、アメリカ式敎育の授業も強制されるだろう。教育者も難きをしのび次代の国民の健全なる育成に心がけることが肝要である」としている。

 

 

慟哭する日赤看護婦たち

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