教育委員選挙の風景(S27.10.04岩手日報)
昭和27年10月4日の岩手日報には、県内各地で熱を帯びていた「教育委員選挙」の様子が大きく紹介されています。現在の教育委員は首長による任命制ですが、この頃はまだ“住民が教育行政の担い手を選ぶ”という理想のもと、公選制が採用されていました。

紙面には選挙カーや街頭演説、農村での集会、候補者が訴えかける姿がびっしりと並び、まるで地方議会選挙のような熱気があります。その中には、作家であり、のちに岩手県立図書館長や県立盛岡短期大学長を務める鈴木彦次郎の写真も掲載されており、文化人が積極的に教育行政へ関わろうとしていた当時の空気感がよく表れています。
また、地域ごとの事情も興味深いものがあります。沿岸の漁村では、漁に出た船が長期間戻らないため、事前投票が行われていたと記事は伝えています。すでに昭和27年の段階で、地域の事情に応じた選挙制度の柔軟な運用がなされていたことが分かります。
さらに、記事の中で一関市は“政治の好きな一関”と呼ばれており、街中では候補者の訴えに耳を傾ける人々や熱心な支援者の姿が見られたといいます。選挙文化が根付いた土地柄は、戦後間もない時期から既に評価されていたようです。
しかし、この教育委員選挙制度は、この後わずか数年で姿を消すことになります。
戦後のGHQ改革の中で「教育を政治から独立させるための住民自治」として導入された公選制でしたが、実際には
・選挙が政治的に利用されてしまう
・専門性が十分に担保されない
・投票率が低迷する
・自治体に選挙コストが重くのしかかる
といった問題が次第に深刻化していきました。
岩手でも、熱気の裏では同様の課題が浮上していたとみられます。
そのため、昭和31年(1956年)の法改正で教育委員公選制は廃止され、現在の首長が議会の同意を得て任命する制度が導入されます。理想を掲げて始まった住民選挙は、制度としての限界を露呈し、10年も経たないうちに終焉を迎えたのです。
昭和27年の記事に写る、候補者の熱い表情や選挙に沸く町の光景は、教育委員が住民の一票で選ばれていた短い時代を切り取った、貴重な記録でもあります。