松尾鉱山小学校将棋倒し事故(昭和36年1月1日)

昭和36年の元旦、「東洋最大の硫黄鉱山」岩手郡松尾村にある松尾鉱山の松尾鉱山小学校で、新年会に集まった児童が将棋倒しになって10名が死亡するという大惨事が発生した。

それは元旦の朝9時45分頃のこと。
当時、松尾鉱山小学校の児童は1870人いた。

1870人というと多いように思えるが、6で割れば300人強となる、
第2次ベビーブーム世代、後年で言えば氷河期世代の肌感覚から言っても、1学年当たり5~6クラスある小学校はそれほど珍しくはない。
昭和末期の盛岡市内で言えば、青山小学校や仙北小学校あたりはそのくらいいたはずだ。

・・・話を戻すと、学校の講堂で新年祝賀式を終えた児童たちは、学校裏の映画館「老松会館」で映画会を見ようと、その老松会館に一番近い方の昇降口に殺到したのだという。
「ワッショイ」「ワッショイ」と無理に押した子供までいたという。

そんな状態の中、階段の所で前の児童がつまづき、それに続く児童が次々と倒れてこの惨事になったのだという。

⑧が老松会館、⑨が松尾鉱山小学校 (日本鉱山地質学会『鉱山地質』第9巻第33号(1959)より)

校舎の構造としては、松尾鉱山の生産が盛んになるにしたかって児童が増加したことに伴い、山の上の方に校舎を増築し、事故当時は6棟にまでなっていたのだという。

そして本来43人いたはずの先生も、その時は年末年始の帰郷などで14人しかいなかったというのだ。

事故後ただちに負傷者は松尾鉱山病院に運ばれたが、圧死者10人、重軽傷10人という大惨事となってしまった。

この惨事の4日後の1月5日、子供たちが行こうとしていた老松会館は学校葬の会場となっていた。

校長は涙声で、
「晴れ晴れとした気持ちでおめでとうと言ったのもつかの間、お祝いの服が一瞬にして喪服に代わるとは夢にも思いませんでした。皆さん許してください」
と弔辞を述べたという。

こうなると責任の所在はどうなるか。
この時の校長は非常に人望があり、PTAからは不起訴の嘆願書名が行われ、4045筆もの署名が集まったのだという。

刑事処分としては、校長が業務上過失傷害致死容疑で盛岡地方検察庁に創建されたが、1月30日に起訴猶予処分が決定した。
しかし、これと同時に依願免職となることとなった。

この手の事故は少なくなかったようで、担当した検事正が上げるだけでも日暮里駅のホーム転落事故(昭和27年6月18日)、二重橋事件(昭和29年1月2日)、弥彦神社将棋倒し事故(昭和31年1月1日)と、今なおWikipediaに独立した項目として残っているような事故を例に挙げ「これらの事故は警察官の警備問題であったが松尾鉱山小学校の件は本質的に違う」と、起訴猶予が決定されたものであった。

 

 


showa
  • showa

コメントする

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です