二二六事件で水沢出身の内大臣・斎藤実死す(S11.2.27岩手日報)

郷土の巨星、墜つ。昭和11年「岩手日報」が伝えた二・二六事件と斎藤実の原点

投稿日:2024年(資料:昭和11年2月27日付 岩手日報)

1936年(昭和11年)2月26日、雪の東京で鳴り響いた銃声。日本近代史の転換点となった「二・二六事件」は、遠く離れた岩手の地にも、言葉に尽くしがたい衝撃をもたらしました。

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今回、当時の「岩手日報」(昭和11年2月27日付)の貴重な紙面を紐解くと、そこには教科書的な記述を越えた、郷土の人々の生々しい悲しみと、一人の偉大な政治家の「原点」が刻まれていました。

■ 緊迫の帝都と「内大臣」の役割

紙面一面には「昨晩愕然たり帝都」「戦時警備令下る」という物々しい見出しが躍ります。事件当時、斎藤実は「内大臣」という要職にありました。

内閣の一員である「内務大臣」とは異なり、天皇の最も近くで助言を行う「内大臣」は、青年将校たちから「天皇の目を曇らせる側近」として真っ先に標的にされました。温厚な対話派であった斎藤氏の死は、日本の理性が暴力に屈した象徴的な出来事でもありました。

■ 幼名「富五郎」と父・高庸氏の厳しい教え

二枚目の紙面にある特集『いちらしい斎藤さん ―今も目のあたり―』には、水沢の古老たちが語る、人間・斎藤実の忘れがたいエピソードが掲載されています。地元の人々にとって、彼は国家の重臣である前に、愛すべき「富五郎さん」でした。

寺子屋での「涙と忍耐」

ある時、寺子屋での出来事について、父・斎藤高庸(たかつね)氏から激しく叩かれた富五郎少年。彼は大粒の涙をボロボロとこぼしながらも、決して声を上げず、逃げ出さず、じっとその痛みに耐え抜いたといいます。

「あの時、涙を流しながらもじっと耐え抜いた強い心が、今の斎藤子爵を作ったのだ」

この幼少期の教えこそが、後に40発以上もの銃弾を浴びながらも尊厳を失わなかった、彼の鋼の精神を育てたのかもしれません。

■ 「巨星遂に地に墜つ」水沢の沈痛

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訃報が届いた際、水沢の町は「全町民愕然として色を失い……」という深い絶望に包まれました。町役場では祈るような沈黙が流れ、石黒岩手県知事も「暗然たる思いである」と談話を発表しています。

厳しい父に育てられ、郷土を愛し、国に尽くした「富五郎さん」。その死は、岩手という一地方にとって、あまりにも大きすぎる喪失でした。

古い新聞紙面に残された「富五郎さん」の記憶。それは、私たちが忘れてはならない歴史の息遣いを今に伝えています。

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