東京裁判で東條英機・板垣征四郎らに絞首刑の判決(S23.11.12新岩手日報)

【歴史の断層】「郷土の宰相」から「被告」へ。昭和23年の紙面が語る東京裁判の決着

昭和23年(1948年)11月13日。敗戦から3年が経過したこの日、岩手県民が手にした「新岩手日報」の一面には、一つの時代が完全に終わったことを告げる生々しい記録が刻まれていました。

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見出しには、冷徹な事実が躍っています。
「全被告有罪・東條ら七名は絞首刑」

世界が注視した東京裁判(極東国際軍事裁判)の判決。そこには、岩手という地方メディアが直面した「身内の線引き」と、戦後の新体制へ適応しようとする苦渋の姿勢が見え隠れしています。


「東京都出身」とされた東條英機

戦時中、東條英機は岩手ゆかりの人物として「郷土の宰相」ともてはやされました。東條家はもともと盛岡藩士の家系であり、彼自身も岩手を自らのルーツとして大切にしていた背景があったからです。

しかし、判決当日の名簿を見てみると、東條の出身地は「東京都」と記されています。

(紙面より)
絞首刑 東條英機(六五)東京都

有罪判決を受け、死刑を宣告された象徴的な存在を、もはや「郷土の誇り」として扱うことはできなかった。そこには、かつての熱狂を打ち消し、一刻も早く「戦犯」との距離を置こうとする時代の転換が反映されているようです。

隠しようのない「岩手県出身」板垣征四郎

一方で、同じく絞首刑の判決を受けた板垣征四郎については、はっきりと「岩手県」の文字が刻まれています。

板垣は盛岡中学(現在の盛岡一高)の出身。地元で教育を受け、地域社会との繋がりが深すぎたがゆえに、東條のように出身地を書き換えて距離を置くことは、当時の編集部にとっても不可能だったのでしょう。

「呼び捨て」と特派員の眼差し

特筆すべきは、記事内での扱いです。かつての最高権力者たちに対し、敬称は一切なく「東條」「板垣」と呼び捨てにされています。

紙面には、新岩手日報の特派員が現地で捉えた生々しい描写が踊ります。

  • 「苦悩の色濃い板垣」
  • 「うなづく東條」

イヤホンを耳にし、判決を聴く彼らの微細な表情までを追った描写は、神格化されていた指導者が一人の「罪人」へと引きずり下ろされた瞬間を、容赦なく読者に伝えています。


結びに

一枚の古い新聞紙は、単なる情報の記録ではありません。そこには、昨日までの「正義」が覆り、価値観が激変した時代の混乱と、郷土出身者への複雑な感情が封じ込められています。

「東京都出身」とされ切り離された東條と、「岩手県出身」として裁かれた板垣。この対照的な表記こそが、1948年当時の岩手の人々が直面していた、やり場のない戦後処理のリアルだったのかもしれません。


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