今度の盛岡税務署長は「鬼熊事件」で有名な千葉県の佐原出身(S4.9.2岩手日報)
昭和4年9月2日の『岩手日報』には、盛岡税務署に新たに着任した署長についての記事が掲載されている。
この新署長が盛岡駅に到着したのは、9月1日の午前11時36分着の列車。岩手日報の記者に対し、彼はまず丁重にこう述べたという。
「赴任が意外に遅れまして、まことに申し訳ございませんでした」
話を聞けば、この人物は大正10年から3年間にわたり属官(=下級官吏)として税務署勤務の経験を持ち、署長となってからもすでに4年が経っているという。若くして要職に就いていることから見ても、おそらくは帝国大学出の高等文官であろう。たしかな行政経験と経歴を備えた人物のようだ。
記事によれば、彼の出身は千葉県佐原町。さらに記者が付け加える形で、「あの“鬼熊事件”で有名な佐原」と紹介している点が興味深い。
鬼熊事件とは、大正15年(1926年)に千葉県香取郡久賀村で発生した凄惨な連続殺人・放火・逃走事件である。荷馬車引きの岩淵熊次郎が、愛人女性の裏切りに激昂し、その女性をはじめ関係者を殺害。警察官を負傷させ、放火まで行ったのち、山中へ逃走した。
その後、地元住民の支援もあって逃亡を続け、ついには警官を殺害。山狩りには5万人が動員されるも逮捕には至らず、1か月以上の逃走の果てに、取材記者や知人の目の前で毒入りの最中を食べ、剃刀で喉を切って自害するという劇的な最期を遂げた。
この事件は当時の新聞が大々的に報道し、演歌にも歌われるなど「鬼熊(おにくま)」の名は全国的に知れ渡ることとなった。事件の舞台となった佐原や久賀村は、その名がしばしば紙面に現れることになり、岩手でもその知名度は相当なものだったことがうかがえる。
そんな土地の出身である新任署長は、写真に写る姿からは厳しさよりも柔和な印象を受ける。白い着流しに帯を締め、律儀な面持ちで立つ姿は、いかにも誠実な官吏といった趣である。
盛岡という町に、新たな税務行政の風をどう吹き込むのか。出身地の“有名さ”に負けず、その人柄と実務能力で、県民の信頼を勝ち得ていくことが期待される。