新興キネマ「花嫁剣法」封切します!(昭和17年1月7日)

昭和17年1月7日の岩手日報より。

新興キネマ「花嫁剣法」が封切するという。

主演は大友柳太郎で初公開は昭和16年9月18日

・・・が、新興キネマというのは当時の映画配給会社であり、この記事の3日後に大都映画と合併して大日本映画製作(大映)が発足するのであるが、別に盛岡にそのような劇場があったわけではないと思うのだが・・・

 

ただ、新興キネマに関していろいろネットを検索しているうちに「小笹正人」という人物に関するWikipediaの記事を読む限りでは、以下のような記述がみられる。

いわく、

小笹は、マキノ・プロダクション御室撮影所長に就任、「撮影部長・マキノ正博」、「総務部長・マキノ満男」を統括する立場となった。小笹は同年、同社を退社、阪東妻三郎のスポンサーだった立花良介が専務取締役をつとめる帝国キネマの太秦撮影所長となっている。同年12月、同撮影所が出火で一部が焼け、撮影所閉鎖の噂がたつ。立花の放漫経営による製作赤字の責任を負って、小笹は帝国キネマ北海道支社長へと転任した。所長の後任は山崎修一がつとめた[6]。まったく同時期の同年12月、マキノ・プロダクションに賃金未払いが発生し、争議や俳優の退社が繰り返され、1931年(昭和6年)には解散することになり、また帝国キネマも同年9月、新興キネマに改組することになる。
その後、小笹は北海道・札幌に留まり、1935年(昭和10年)までには同地に内外映画社を設立、代表となり、同社の支配人は小笹雄治が務めた。1937年(昭和12年)、同社は内外商事株式会社となり、小笹は代表取締役、小笹雄治は専務取締役に就任している。1938年(昭和13年)、同社専務の小笹雄治の自費出版として、小笹は『映畫國策の急務 – 業界報告第一輯』という小冊子を著す。同年、同様に『映畫國營論 – 業界報告第二輯』を出版する。時期は不明だが、内外商事は岩手県盛岡市紺屋町に移転し、映画館「国民映画劇場」(盛岡国劇、1972年閉館、現存せず)を経営する会社となった。

戦後に洋画専門館になる国劇と何か関係ある・・・?

 

 


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