豊作なのに精米所の能力が足りず配給が遅滞(昭和25年9月28日)

昭和25年9月28日の岩手日報より。

この年は食糧事情が好転し、米食率が73%で「戦後最良」であったという。

というか、73%しか米を食べれなくても、それは「良い方」だったらしい。

ともかくも、配給は「いも」「粉」に代わって米が1か月に22日分も配給されたのだという。

しかし、精米所が足りず遅配となる所が続出した。

食糧配給公団盛岡支所が弁明するところでは、
「これまでは食糧事務所からの払い下げの中からは2~3割は白米供出によるコメがあったが、今月は玄米ばかりであった。その上に米食率の上昇で今までの処理能力ではやっていけなくなったのだ。しかし今日28日から精米所を新設するのですぐにこの事態も解消しよう」と。

 

ところで、「食糧配給公団」とはどのようなものであったか。
Wikipediaに詳しい。

いわく、

3月3日には物価統制令が公布施行されたが、価格設定がインフレーションに合わせ非常に高かったため、都市部住民の生活は窮乏を極め、5月1日に復活メーデーが開かれた後、5月19日には飯米獲得人民大会が皇居前広場で開かれ、労働組合員や日本共産党の党員を中心に約25万人が抗議を行った(食糧メーデー)。翌1947年12月30日、初の食糧管理法改正により、対象となる食糧に馬鈴薯・甘藷・雑穀が加えられた。また1947年12月30日食糧管理法改正公布により食糧営団に変わり食糧配給公団設立が規定され、1948年2月20日発足し、復興金融金庫より運営資金を借り入れ引き続き配給を行った。
ガリオア資金の計上により輸入食糧の補給が始まり、その後1948年7月20日に食糧確保臨時措置法が公布施行された。農林大臣は都道府県知事の意見に基づき農業計画で義務となる売渡数量を定め、これにより都道府県知事は市町村別の農業計画を定め、その指示で市町村長が生産者別の農業計画を定め指示するという内容であり、議決機関として政府に中央農業調整審議会、都道府県・市町村に農業調整委員会が設置された。
翌1949年6月25日には、三度目の食糧管理法改正により、食糧配給に関しても農林大臣の配給計画のもとで進められることとなり、農林省の外局として食糧庁が設置された。これらの体系整備により、供出制度は根本的に変わり、食糧不足は緩和され、経済安定九原則のもと、インフレーションも収束へ向かった。こうして1950年3月31日、四度目の食糧管理法改正で芋類は主要穀物の対象から外された。そして指定卸売業者や指定小売業者を通じた販売体制になったため、食糧配給公団は1951年に解散した。

してみれば、この項の「食糧事情の改善」というのは、豊作というよりも政治的な配給制度の改善によるものだったということなのだろうか。

 


showa
  • showa

コメントする

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です