東京株式情報(S2.1.8岩手日報)

昭和2年1月8日の岩手日報には、東京の株式・米相場・生糸相場など、当時の主要市場の価格がずらりと並んでいる。今の証券アプリのように一瞬で価格が動くわけではなく、新聞紙面が一般の人にとってほぼ唯一の情報源だった時代だ。

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しかし、こうした記事が地方紙に毎日のように掲載されていたということは、岩手にも“相場を見る人”が確実に存在していたということでもある。現代ほどの規模ではないにせよ、地方都市にも株や米相場で一発逆転を狙う人はいたし、「相場で大損した」「夜逃げした」といった話は当時から珍しくなかった。

当時の取引はどんな姿だったのか

大正末〜昭和初期の株式取引は、今とはまったく違うアナログの世界だった。

東京の取引所では、仲買人たちが円形の立会場に集まり、大声で売買を叫ぶオープンアウトクライ方式。電光掲示板などは存在しない。“場”そのものが相場だった。

地方から相場に関わるにはさらにハードルが高い。岩手の投資家が取引をするには、
1. 新聞の相場欄で価格を確認
2. 盛岡や花巻の仲買店に出向き、注文を依頼
3. 仲買店が東京の取引所に電報で注文を送る
4. 結果がまた電報で戻ってくる

という非常に時間のかかる流れだった。

電話はまだ贅沢品であり、リアルタイムの価格を知る手段など存在しない。地方の人々は、昨日の相場を見て今日の売買を決めるしかない、きわめて不利な状況に置かれていた。

それでも、新聞の相場欄を食い入るように見る人は多かった。仲買店には「東京から電報が届いたら掲示する」速報板があり、それを見ようと毎日通う常連がいたという証言も残っている。

なぜ人々は相場に惹かれたのか

昭和初期は、金融不安が続き、やがて昭和恐慌へと向かう時代である。

・給料が安い
・物価は上がる
・不況で将来が見えない

そんな中で、相場は一種の“夢”だった。

「今の暮らしから抜け出せるかもしれない」
「東京の人たちは儲けているらしい」

そうした期待が地方にも広がり、岩手でも小口投機を試みる人が増えた。結果として失敗する例も多く、「相場に手を出して家を手放した」「夜逃げした」などの記録も残る。

相場欄に並ぶ数字は、当時の“未来の地図”だった

昭和2年の相場欄を眺めると、ただの数字の羅列に見える。しかし、この数字こそが、当時の人々にとっては未来を占う唯一の材料だった。

インターネットどころか、電話ですらまともに使えない時代。それでも人々は新聞を手に取り、東京の市場の動きに想像を巡らせながら、自分の生活や将来を重ね合わせていた。

地方の岩手でも、誰かがこうした記事を毎朝読み、胸を高鳴らせたり、青ざめたりしていたのだろう。

昭和初期の相場欄は、ただの経済情報ではなく、現代とは比べものにならない“重さ”を持つ生活の断片でもある。


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