青年学校は義務化するけど、盛岡市内では1校に統合します(昭和15年1月15日)
1940年1月15日
2022年1月15日
昭和15年1月15日の岩手日報より。
この時期「青年学校」という教育機関があった。
これは、尋常小学校を卒業して働いている青年を対象とした教育機関である。
これが、昭和14年の青年学校令の改正により、義務教育化されることになった。
この時点で、盛岡市内の青年学校は以下の場所にあった。
- 盛岡市内10の小学校
- 工業部(岩手県立工業学校内)
- 商業部(盛岡商業学校内)
これが、1月12日に盛岡高等小学校(現在の下橋中学校)で開催された敎育調査会で、学校を1校にまとめることにしたのだという。
学校の場所は杜陵小学校を予定しているという。
このほか、米内と土淵には分校を設け、商業部と工業部は独立させるという。
現在の感覚だと、このあたりが理解できなくて、義務化に対応するというのであれば、学校を分散して通いやすくした方がいいのではないだろうか。
昭和15年だと厨川村と合併してすぐの頃で、厨川あたりから通うのはなかなか難儀だったろうと思われる。