あの事件はどうなった?(昭和25年10月12日)
このブログを始めて1週間が経過し、どのように更新するのか、どのように検索に引っかかるのかということもおぼろげながら分かってきた。
色々な事情からセンシティブと思われる記事については、記事ごとにnoindex, nofollowすればいいということもわかった。
しかし、それだけでは検索に引っかかる可能性があり、例えばトップページやカテゴリ別のページでは記事の前半部が表示されるわけだが、その文章をひっかけたりすることもあるようだ。
だから、本当に検索してほしくないとなったら、カテゴリーのページにこのように文字数稼ぎの文言を打ち込んでおかなければいけないようだ。
そこまでして何の記事を書きたいのか?
昭和21年に中学生の誘拐殺人事件が発生した。
犯人は宮城刑務所に下獄し、「岩手の重要犯罪」では、残された家族について、以下のように記述している。
これより先に妻は、写真が新聞紙に出るや、中学生誘拐事件の犯人が夫なることを察知し、既に生地鹿児島県に旅立ってしまった。
まあ離縁したくもなるでしょうね・・・
ところが、昭和25年10月12日の岩手日報によるとそうではなかったようである。
犯人の妻は、東磐井郡のどこだかの村で、倉庫を改造したあばら家に母子6人が、生活扶助を受けながら暮らしていたのだという。
最初は製板工場に働きに出ていたが体がもたず、その次は野菜の行商に出ていたのだが・・・
あの「角田屋事件」を題材にした芝居が、村に来るというのである。
その事件の犯人の嫁と子供達ならこの村にいる・・・!
そもそも、そんな「実在の事件を芝居にする」というセンス自体が今では全く理解できないのだが、しかし現在の刑事ドラマでも、実際の事件をモデルにした番組はあるわけで、そう考えると、テレビのなかった時代であることも考えれば、十分にあり得ることなのか・・・?
そんな心身の極度の疲労がたたり。昭和24年夏ごろからは肺浸潤や心臓の病気に犯されるようになっていた。
それで、村役場からは生活扶助を受けていたが、主食の配給代にすら足りないありさまだったという。
しかし、5人の子供たちは順調に育っているのが救いだった。
長男は中学校でも5番以内に入る成績であるという。
また、被害者である盛岡の角田屋には、一度香を手向けに行ったことがあるのだという。
その哀れな姿に、父である角田屋の主人は「犯人は憎んでも憎み切れないが、妻子に何の罪があろう。私は子供を失ったが、犯人の子供達には同情している」と語っていた。
しかし、それは無言の対面でお詫びの言葉一つなかったようで、主人は「子供たちには何とか心づくしをしてやりたいが、あの母親の退位度では恩が仇に終わるような気がしてね・・・」とも付け加えた。