信用金庫の職員が一家3人殺して逃亡(昭和33年4月18日)
昭和33年4月18日に日が変わった丑三つ時。
盛岡市の寺町である新馬町の長屋から、住人の主婦の悲鳴が上がった。
「誰か来てーーーッ!」
何事かと思って眠りを破られた長屋の住人が集まってくる。
「どうしました?」
「何でもないんです」
ああ、そういえばここには19歳の養子がいたんだった。
喧嘩でもしたのかな?
住人たちは再び眠りに就くことにした。
その朝のこと。
例の悲鳴の上がった家は日活映画館のレストランのコックで朝が早く、6時にはすでに起き出してるはずなのに、物音ひとつしない。
どうしたんだろう?
長屋の子供たちが興味半分で覗いてみると・・・
「血まみれで死んでる!!!」
「何!?!?!」
事件はすぐに、盛岡警察署に通報されるところとなった。
事件の家からは、25万円が盗み出されていた。
改めて、長屋の住人に事情聴取してみる。
「ああ、そういえば昨夜、青山行きのバスに乗り遅れたっつって泊めでくれって若い男がいだったね」
その男は、盛岡信用金庫の職員だった。
昭和29年に盛商を卒業して入社し、勤務態度はまじめだったという。
しかし、酒やマージャンを覚え、借金があったのだという。
盛岡市内のどこかのクラブでは、1か月に5,000~10,000円使ってもいたという。
「俺の月給は18,000円だ」と言っていたというが、実際は8,800円だったという。
それでは実家暮らしとはいえ、経済的に立ちゆくわけがない。
その男を追え!
そうすると、情報が入ってきた。
- タクシー運転手「その男を日詰から花巻まで乗せだごった(乗せたかもしれない)」
- 盛岡市内のバー女給「18日の夜10時に5尺7寸(173cm)ぐらいの男が来てジンフィズ飲んでた。『日赤に勤めてる』って言ってた。お客さんにどこかのダンサーさんいたけど『あの人だれ?』と気になるようだった。新聞見たら犯人にそっくりだったので、怖くて他の子と話してたんだけど警察に届けることにした」
岩手県警による手配書も出されたが、それっきり音沙汰がなくなってしまった。
犯人が捕まったのは、事件から1か月が経とうとしていた昭和33年5月14日のこと。
上野駅の近くのホテルで逮捕された。
盛岡駅には常磐線経由の急行「みちのく」で刑事に連れられて返ってきたが、盛岡駅では「あの事件の犯人」を一目見ようと物凄い人だかりであったという。
「お前、これまでどこに行ってたんだ?」
「佐渡島とか京都とかに行ってました。どうせ大それたことをしたんなら、金を使い果たして死のうと思ってました」
几帳面なことに、「死への旅の記録」としてノートにその時に使った金を記録していたのである。
そうしたあたりは、さすがは信用金庫の職員であるというべきか。
- 四月十三日 失敗
- 十七日 訪問し午後八時泊る。
- 十八日 一時四十分目が覚め二時五分より行動開始。二時四十分終る。三時二十分まで後始末す。八時出勤九時二十分集金に出、現場宅に行く。すでにこと発見さる。九時五十分盛岡駅に行く。日詰バス会社まで平和タクシー(実際には盛岡タクシーだったらしい)で行く。日詰からタクシーで花巻、花巻から村崎野駅途中までハイヤー、村崎野から北上まで歩く、北上から仙台、仙台から作並。
- 十九日 作並-新庄-余目、余目からハイヤーで鶴岡、湯ノ浜、二泊の予定。
- 二十日 湯ノ浜温泉の色街で遊ぶ。
- 二十一日 鶴岡市内見物、大山公園、鶴岡公園を見る。
- 二十二日 湯ノ浜-鶴岡-新潟
- 二十三日 新潟港-両津港 二三日の予定
- 二十四日 十二時三十分観光バス
- 二十五日 八時三十分観光バス
- 二十六日 マージャンする。
- 二十七日 両津港-新潟、十九時上野。
- 二十八日 みゆきホテル(浅草)に泊る。浅草より観光バスに乗る。慶明戦見る。
- 二十九日 浅草にて映画。巨人-阪神。コロナ(ホテル)、寿司屋。
- 三十日 巨人-阪神。コロナ。
- 一日 巨人-阪神、浜離宮、コロナ。
- 二日 浅草フランク永井ショウ。後楽園にて遊ぶ。
- 三日 上野日活「明日は明日の風が吹く」「羽田発七時五十分」キャバレー一松にて遊ぶ。
こうなると先の証言は、タクシー運転手の証言は本人だったようだが、バー女給の証言は、別の誰かということになりそうだ。
結局、裁判では死刑が言い渡されることになる。
事件そのものの詳細については、大判例の以下のページも参照。
「岩手年鑑」によると最高裁まで争うことになり、「死刑は残虐な刑罰で違憲」というところまで争ったようであるが、結局は死刑が確定した。