清水原信号場を駅に昇格してほしい
1954年3月11日
2021年12月4日
昭和29年3月11日の岩手日報より。
この頃、東北本線は電化しておらず、単線区間もかなりあった。
そうしたところ、一関以南が複線化することになり、西磐井郡花泉村にある清水原信号場も不要になるということで、廃止の話が持ち上がった。
隣接する金沢村は「現在の信号場の300m南にある踏切付近に移転するのであれば800万円協力してもいい」という態度であった。
ところがその位置は勾配がきつく、駅を作るにはその点から回収しないといけないという状態であった。
それで、信号所の位置に駅を造るのであれば400万円で済むところ、金沢村の要求する位置に駅を設置するのであれば2000万円を要するという状態であった。
それで、計画は一旦お流れになったのである。
それで、地元の清水原部落では駅設置期成同盟会まで設立して共有林を伐採し、200万円の資金をねん出し、金沢村商工会も「村が応援しなくても自分たちが応援する」と協力を申し出て、トントン拍子に話が進み、昭和30年秋には実現する見込みとなった。
また、油島信号場も地元の油島村などの努力で駅昇格の見込みであるということだった。