釜石市役所女子職員殺害事件(昭和36年4月23日)
当時の釜石について
昭和12年、盛岡市に次いで2番目に市制した釜石市は、昭和35年の国勢調査では人口87,511人。
人口も盛岡に次いで2番目で、釜石の絶頂期といってもいい時代であった。
釜石は港町でもあり製鉄所の町であり、常に流れ者が多く県内でも治安の良い場所とは言えなかった。
ことに大町や只越といった中心街は、毎日のように女性が男に追いかけられたり引っ張られたりということが相次ぐという危険な状況であったようだ。
花見の夜の惨禍
薬師公園の花見で賑わっていた釜石市中心部の裏通りの水野医院の庭の中で、女性の死体が発見された。
4月23日早朝、鶏のエサを探していた近所の47歳の工員が第一発見者である。
女性が酔っ払って寝てるのかと思ったら死体だった。
死体の身元はすぐに判明した。
それは近くに住む釜石市役所の職員で、友人の結婚祝いの帰りだった。
死因は扼殺で暴行の跡もあった。
4月1日に臨時職員から正職員になってつかの間のことであった。
事件現場は普段から人通りが少なく、チンピラがたむろする場所でもあった。
司法解剖の結果でるが、結婚祝いで食べたものが見つかったので、帰宅早々惨禍にあったものと推定された。
この事件に対し、釜石市議会の議員も「いくら釜石がよそ者の集まりだといってもこんな残酷な事件は無かった。釜石の名に泥を塗った」と憤慨していた。
また、被害者と同じ釜石市役所の女子職員は「男の人なんて酒を飲めば何をするか分からない。あのあたりで大声で叫んだって、どこかのバーの女だとしか思われないだろう」と嘆いた。
捜査
ただちに釜石警察署による捜査が開始された。
この事件は計画的な殺人か、偶発的な事件か。
捜査範囲は現場付近の不良仲間や、釜石港に停泊中のサケマス漁船などが中心であった。
事件で特徴的だったのは、被害者の着衣を整え、眼鏡を直してやっていること。
顔見知りの犯行がうかがえた。
しかし捜査開始時点では目撃者は無し。
犯人の遺留品も無し。
ただし被害者の眼鏡からは指紋を検出することができた。
また、犯行は単独犯か、複数犯か。
時間的に複数犯は考えられず単独犯ではないかと見られた。
事件が発生して1週間が経とうとしても、犯人を挙げる算段は立っていなかった。
被害者の交友関係も大人しく、犯人の心当たりが全くないのだ。
この事件を受け、釜石市内で女子が学ぶ釜石高校定時制、釜石文化学院夜間部、釜石服装女学院では通学に女子の1人歩きを禁じ、短縮授業に踏み切ることとした。
釜石市内の女性に治安についてアンケート
この時期、岩手東海新聞では釜石市内の女性に治安に関するアンケートを取っている。
- 釜石市民病院勤務 Yさん(21歳)
釜石の夜は怖い。映画館に1人で来ていると、男の人が隣に来てモソモソしていることがある。
バス停でも不漁のような男がうろうろしている。 - 及新デパート勤務 Sさん(19歳)
1人で外出したことは無いが、暗いところが多い。
特に9時過ぎはひどい。 - 文化学院勤務 Aさん(22歳)
夜遅く1人で歩いたことは無いが、若い人が随分たむろしているようだ。
危険は大して感じないが感じはよくない。
街を明るくして暗い所をなくしてほしい。
派手な服装の男の人がうろうろすることの無いようにしてほしい。 - 主婦 Oさん(49歳)
私のような年配者でも薄気味悪い時はある。
知り合いの女性も映画帰りにおっぱいを触られたという。
釜石の夜は暗いという印象しかない。 - 山神町在住 Aさん(30歳)
近所の外灯が消えていることもある。
そういう場所に不漁が集まっていることもある。
警察もパトロール中にそういう連中をドシドシ尋問すればいいのに。 - 釜石市民病院勤務 Bさん(22歳)
あんな事件があってから、知らない男の人と会うのが怖くて思わず避けてしまう。
それまではそんなことを思ったことはないのに。
3か月後の解決
事件は7月になってもなお解決していなかった。
犯人逮捕となったのは、事件から3か月もたった7月24日のことである。
それは市内中妻に住む20歳の土工の男で、少年院に6回も入っている札付きの不良であった。
最初は事件3日前の4月19日にキャバレーのボーイを殴った疑いで別件逮捕。
その中で本丸の事件を追及すると「自供(ウタ)った」のである。
犯人は事件当日、仕事を休んで釜石市内で遊んでおり、夜に友人宅に行ったが不在であったところ、被害者が通りかかったので犯行に及んだのだという。
乱暴を働いて被害者が動かなくなり、死んでいるのが分かったので慌てて逃げかえったのだという。
その日は遅く帰り、家族には「薬師山で花見をしていて喧嘩した」と話していたという。
逮捕の決め手となったのは、犯人宅から押収した着衣が、事件当夜に目撃されたものに酷似していたこと、死体に付着していた精液と血液型が一致していたということであった。
製鉄所でレンガ張替作業をしていた親方によれば、「気は荒いが仕事は真面目だったのに・・・」とコメントしていた。
事件の解決は、被害者の霊前に報告された。
判決
第一審の盛岡地裁判決は昭和37年1月22日。
検察側は死刑を求刑したが、被告の生い立ちや計画性のない犯行であったことから、無期懲役の判決となった。