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岩手県で初めての成人式(昭和24年1月15日) a盛岡・岩手郡・紫波郡

岩手県で初めての成人式(昭和24年1月15日)

平成10年の「ハッピーマンデー法」まで、成人の日は1月15日と決まっていた。 これは、昭和23年7月10日に公布・施行された「国民の祝日に関する法律」によるものである。 この法律が定められて初めての岩手県内の成人式はどうであったか、昭和24年1月16日の岩手日報から紐解いてみたい。 祝日法施行後初の…
学制改革は各校とも単独昇格希望(昭和22年12月1日) a盛岡・岩手郡・紫波郡

学制改革は各校とも単独昇格希望(昭和22年12月1日)

昭和22年12月1日の新岩手日報より。 この時期、各中等学校は「学制改革」を控えており、学校再編が必至だった。 県側は、統合して昇格しようとしているのに対し、各学校側はそれに反対をしていた。 盛岡地区 盛岡中学は、杜陵中学を同行の夜間部として併設しようとしているが反対している。 杜陵中學側も、この闇…
扶桑第六〇一工場(場所不明)「お願いだから戻ってきて!逃げ出したことはもう何も言わないから!」(昭和20年8月10日) e釜石・遠野・上閉伊郡

扶桑第六〇一工場(場所不明)「お願いだから戻ってきて!逃げ出したことはもう何も言わないから!」(昭和20年8月10日)

昭和20年8月10日の新岩手日報の広告欄より。 「扶桑第六〇一工場」というところが従業員に呼びかけている。 どこの工場なのかはこの広告からは読み取れない。 現代語訳するとこんな感じだろうか。 離職したみんな、私たちは工場復旧と生産に奮闘している。 すぐに復帰してほしい。 今日勤務したかしないかは、明…
上閉伊郡栗橋村では割当量の234%の松根油生産!(昭和20年7月12日) e釜石・遠野・上閉伊郡

上閉伊郡栗橋村では割当量の234%の松根油生産!(昭和20年7月12日)

昭和20年7月12日の岩手日報より。 4~6月の第1期の松根油生産において、県下で最も優秀な成績をあげたのは上閉伊郡栗橋村で、割当量の実に23割4分の生産を達成したという。 これは、責任者が滅敵の闘魂を燃やして2里(8km)の道を、未明から夜の8時まで何があっても帰宅せずに奮闘したからであるという。…
昆布増産の最前線は学童たち(昭和20年7月2日) e釜石・遠野・上閉伊郡

昆布増産の最前線は学童たち(昭和20年7月2日)

昭和20年7月2日の岩手日報より。 当時、大槌湾は「養殖昆布の先進地」であると認識されていたようである。 その大槌湾では子供たちが小舟が沈みかけるほど大量に昆布を収穫していたという。 大槌漁協割り当ては5,957貫であったが、6月30日の時点でそれを達成し、これまで使わなかった穴布(あなめ)まで採取…
釜石憲兵分隊「灯火管制を守らなかったり、裏山に逃げ回ったり、何たる不心得!」(昭和20年6月29日) e釜石・遠野・上閉伊郡

釜石憲兵分隊「灯火管制を守らなかったり、裏山に逃げ回ったり、何たる不心得!」(昭和20年6月29日)

昭和20年7月2日の岩手日報より。 6月29日夜、釜石に敵機の偵察があったのだという。 ところが、その時に灯火管制を守らず注意された家は20戸、始末書を取られたのが16戸あったという。 中には「暑い」と言って雨戸を開放して消灯しており、いざという時に思わず点灯してしまうという家もあったという。 そう…
釜石鉱山では鶴嘴片手に無休の正月 e釜石・遠野・上閉伊郡

釜石鉱山では鶴嘴片手に無休の正月

〽️海の男の艦隊勤務 月月火水木金金 休みなく働くことを称揚した軍歌「月月火水木金金」は、本来は戦争の激化により休みがなくなっていく海軍の状況を自嘲的に「これじゃ月月火水木金金だよ」と誰かがこぼしたのを真に受けて作詞されたものであると言われている。 昭和20年の釜石鉱山の正月は、その「月月火水木金金…
釜石の電話が共電式に(昭和18年3月28日) e釜石・遠野・上閉伊郡

釜石の電話が共電式に(昭和18年3月28日)

昭和18年4月1日の新岩手日報より。 釜石郵便局の電話方式が、3月28日から共電式に改正されると言う。 この電話は、エボナイト製のスマートなもので、小声で通話しても非常に感度は良く気持ちよく通話できるのだと言う。 仙台逓信局からは工務部長と電務課長が来て、作業の陣頭指揮に当たった。 新しい方式の電話…
ノモンハン事件で戦死した釜石市出身勇士の遺族に皇后陛下が御下賜品(昭和17年1月24日) a盛岡・岩手郡・紫波郡

ノモンハン事件で戦死した釜石市出身勇士の遺族に皇后陛下が御下賜品(昭和17年1月24日)

昭和17年1月15日の岩手日報より。 満蒙国境で展開されたノモンハン事件で戦死した日本兵は7000人とも9000人ともいわれている。 この戦死者に対し、釜石市出身者遺族に1月24日、盛岡の県庁本庁舎で御菓子と御歌複本の伝達式が行われるという。 対象者は14名であった。     &…
釜石港ではイワシが豊漁(昭和15年1月19日) e釜石・遠野・上閉伊郡

釜石港ではイワシが豊漁(昭和15年1月19日)

昭和15年1月19日の岩手日報より。 釜石港では近年にないイワシの豊漁であり、須賀埋立地派イワシの山でトラックが轢きつぶすような状況であったという。 ちなみに記事中では一貫してイワシは「鰮」と表記している。 魚油は35,000缶と前年の9,500缶に比べて4倍近くなり、肥料に使う〆粕も前年の5割増し…
自治制発布50年記念式典で全国の町村長の総代として上閉伊郡金沢村長が挨拶 e釜石・遠野・上閉伊郡

自治制発布50年記念式典で全国の町村長の総代として上閉伊郡金沢村長が挨拶

昭和13年4月18日の読売新聞より。 明治21年(1888年)に町村制が発布され、昭和13年で50周年を迎えることとなった。 そこで、内務大臣の招待を受けた69町村、個人352名の総代として、明治25年から46年の長きにわたって村長の座にあった、岩手県上閉伊郡金沢村の兼沢福次郎村長(77歳)が挨拶を…
釜石にはびこる鉄屑泥棒 e釜石・遠野・上閉伊郡

釜石にはびこる鉄屑泥棒

昭和13年3月4日の岩手日報より。 「鉄の都」として軍事的にも重要な位置にあった釜石であったが。釜石製鉄所構内から鉄屑や鉄製品を盗み出す少年窃盗団が検挙されたという。 この少年たちが自白しただけでも75件。200円前後であったというが、この手の被害が増加しており、警察では全滅の為に努力していくとして…
釜石の印刷所で不穏なトラブル(昭和13年3月3日) e釜石・遠野・上閉伊郡

釜石の印刷所で不穏なトラブル(昭和13年3月3日)

昭和13年3月3日の岩手日報の広告欄より。 釜石市内の印刷所で何やら不穏な裁判沙汰があったらしい。 釜石で営業していた東海印刷所は、遠野区裁判所を通じ岩手日報社に仮処分の申請をされたらしい。 しかしそれは「巧妙陋劣なる申請」であり「岩手日報社の干渉を受ける理由はない」として突っぱねている。 そしてそ…
第32回目の海軍記念日 岩手では(昭和12年5月27日) a盛岡・岩手郡・紫波郡

第32回目の海軍記念日 岩手では(昭和12年5月27日)

5月27日の海軍記念日は、日露の戦役で日本海海戦に勝利したことを記念して制定された。 第32回の記念日となる昭和12年のこの日は、岩手県内で以下のことが行われた。 盛岡市内各小学校でZ旗の掲揚。 Z旗は前日に盛岡海軍部・岩手艦橋会から寄贈されたもの。 岩手県公会堂では講演会と映画会。 講演講師は盛岡…
明治神宮で賽銭泥という不敬を働いた男の親は・・・ e釜石・遠野・上閉伊郡

明治神宮で賽銭泥という不敬を働いた男の親は・・・

明治神宮は明治天皇を祭る畏き神域。 その明治神宮で賽銭泥棒という大それた不敬をしでかした30歳の男は、岩手県のどこだかの街の出身だった。 郷里に住むその男の父親だけでなく、その町の町長までが東京に出て明治神宮でお詫び行脚である。 明治神宮の神域で不敬を働くということは、それほどの大それたことであった…
岩手軽便鉄道の買収額は162万7000円(昭和11年10月31日) e釜石・遠野・上閉伊郡

岩手軽便鉄道の買収額は162万7000円(昭和11年10月31日)

昭和11年11月1日の岩手日報より。 釜石線の花巻から足ヶ瀬までは、もともとは岩手軽便鉄道であり、宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」のモデルになった路線でもある。 戦前に、ナローゲージのまま鉄道省に買収されて「釜石西線」になるのだが、その時の買収額は1,627,000円であったと言う。 後は、前田鉄道大臣の…
釜石町に大火が発生し22戸が全焼(昭和10年3月7日) e釜石・遠野・上閉伊郡

釜石町に大火が発生し22戸が全焼(昭和10年3月7日)

昭和10年3月8日の岩手日報より。 3月7日の午前1時過ぎ、釜石町大渡3丁目から発火、22戸全焼したと言う火災が発生した。 出火と同時に、町役場では吏員が非常召集し救護に出動した。 そして、焼け出された避難民に炊き出しを行い、20日分の食料と、罹災資金20円、被覆は1人につき5円、学用品は3円を配給…
あまりの凶作に犬猫まで殺して食べることに e釜石・遠野・上閉伊郡

あまりの凶作に犬猫まで殺して食べることに

昭和9年は天候不順により凶作の年となった。 どこかの村では、楢の実を食べて露命をつないでいたが、ついにそれも食べ尽くし、犬や猫まで殺して食べることにしたのだという。 この情報を聞いた県では、救済策を講じることになった。 ちなみに、小学校の児童は給食で命をつないでいるという。  …
三陸大津波に対する東京での動向 e釜石・遠野・上閉伊郡

三陸大津波に対する東京での動向

昭和8年3月3日に三陸大津波が発生、東北地方で甚大な被害が発生する。 翌3月4日の読売新聞では、むしろ宮城県での被害を大きく報じている。 見出しは以下のようになっている。 惨!生地獄の三陸 震水害地の実地踏査記 宮城県 セメントの空樽に納棺 涙で形ばかりの手向 右往左往哀れ罹災者群 から桑村地方の惨…
釜石沖にクラゲの大群 e釜石・遠野・上閉伊郡

釜石沖にクラゲの大群

昭和9年2月11日のよみうり少年新聞より。 「岩手県釜石沖では~」という書き出しで始まっているこの記事は、この近辺で漁が思わしくないことを解説している。 岩手県水産試験所で調査したところ、これは数十年来見なかったクラゲの大漁浮遊であることが判明したという。 記事にいわく「まるで無数のパラシュートが潮…
三陸大津波 c久慈・九戸郡

三陸大津波

昭和8年3月3日午前2時30分、釜石市東方200kmの海上でマグニチュード8.1の地震が発生。 正直、これ以上のことは写真も含めてWikipediaを見ればすべて分かるので、そちらをご覧ありたい。 ここでは、この地震と大津波が岩手県内でどのように報じられたかということについてのみ触れておくことにする…