山田線の捨て子(昭和30年11月17日)
昭和30年11月17日。
宮古発盛岡行きの411列車が区界駅に到着しようとした時のこと。
車掌が検札していると、小さい女の子が泣いている。
どうやら迷子になったらしい。
親の名前を聞いても、それどころか自分の名前すら言えないらしい。
これはいったいどうしたものか・・・
盛岡に到着し、とりあえず中央児童相談所に預けることにした。
県警本部を通じ県内各警察署に手配したが「該当者なし」の返事だけ。
それまでに分かったことといえば以下の通り。
それから10日以上たってしまった。
- 言葉は宮古の方の訛り。
- 電話機を指さして「山口にはラジオがいっぱいあった」
- 「サーカスを見ようねって言って母ちゃんと汽車に乗ってきた」
- 「母ちゃん病気で寝てる」
- 「父ちゃんも病気で寝てる」
- 「母ちゃんは(兄弟?)にばっかり良い物を買ってる」
山口と言えば宮古市山口のことだろうか?
訛りも宮古だしその可能性が強い。
結局この「宮古訛り」「山口」を糸口に宮古署で調べたところ、宮古市鍬ケ崎に住む両親の娘で6歳であることが分かった。
それでめでたく親元に帰ったのかというと、それがそうではない。
33歳の父親は漁夫であったが、この3年前から胸を病み、医療扶助を受けて病院に入っていた。
30歳の母親はといえば、その夫の看病で3歳になる男の子(幼女から見れば弟)を連れて病院に寝泊まりしていた。
6歳になるその女の子は、母親の実家に預けていたが、実家の一家(新聞には書いていないが普通は長男が家督を継ぐことを考えれば兄一家?)はその女の子につらく当たるという。
母親は見るに見かね別の家に預けたが、ここからも引き取って、結局病院で親子4人が暮らすことにした。
しかし、碌に食べさせてもらっていない女の子は病院の売店や炊事場で食べ物を盗むことを覚えた。
これで病院の人からも嫌われてしまい、結局夫を捨てるか、娘を捨てるかという選択をしなければならなくなり、娘を山田線の盛岡行きの列車に捨てることにしたのだった。
娘には「ちょっとお便所に行ってくるからね」と、自分は宮古の2つ先の蟇目駅で降りて引き返した。
「どうか情ある人にもらわれて行ってね・・・」
娘が車掌に見つけられたのは、区界の辺りだった、ということになる。
「お母さんの所に帰るのはだめなんですかねぇ・・・」
「この子を引き取ったら夫の看護ができないんです!」そう言って泣き崩れるばかりだった。
これはもう、保護施設に預けるしかない。
この女の子もすでに70歳の坂を越えている頃。
その後の人生は幸あるものだったであろうか。